皆さんこんにちは。
文月です。
本日も、引き続き「世界全史」について見ていきたいと思います。
この一連のエントリーは、私の読書備忘録を兼ねています。
前回のエントリーはこちらです。
本日は第3章「地域ごとに並び立つ帝国の時代」の中盤、ローマ帝国の成立以降からビザンツ帝国(東ローマ帝国)への移り変わりについてです。
目 次
軍による支配地の拡大
オクタヴィアヌスはローマの伝統的政治体制を維持しつつ軍事独裁体制を構築します。
以後のローマは軍事力により支配地域を拡大。
五賢帝時代(96-180)にはパクス・ロマーナと呼ばれるローマ帝国の最盛期に。
しかしローマの繁栄はここまででした。
ローマは軍事征服で巨大化しましたが、征服する土地がなくなると社会は軍事から経済中心に。
ローマは広域経済体制を築くことができずに衰退することとなります。
キリスト教の広まりと東西の分裂
ローマ帝国が衰退しはじめると、内紛や内乱が起こるようになります。
ローマ衰退の混乱期に、救済を説いたキリスト教が奴隷や貧民の間に広がっていく事に。
ローマは各地の軍団が皇帝を擁立して争う、50年で皇帝が26人も入れ替わるような大混乱の軍人皇帝時代に至り、急速に力を失っていきます。
三世紀末、ディオクレティアヌス帝の時代に帝国は四分され、軍人と官僚による支配(ドミナトゥス)を開始。
四世紀初頭、コンスタンティヌス帝の時代に帝都をローマから黒海入口のコンスタンティノープルに移すとともに、それまで平民に浸透していたものの弾圧されていたキリスト教をミラノ勅令により公認します。
392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教として広大な支配地域唯一の宗教として権威付けされました。
395年のテオドシウス帝の死に際して、テオドシウス帝は長男と次男にそれぞれローマの西と東を与えて分割統治させましたが、結果これが東西ローマに分裂する事につながります。
同時期、ゲルマン民族の大移動によりローマ帝国西部にゲルマン諸族が次々と侵入。
ゲルマン民族に対抗するためローマ帝国の軍事費は増大し、鋳造貨幣の質を下げることによって財政難に対処したため、インフレが進行して経済が衰退に向かいます。
476年、東西ローマの統一を目指した傭兵隊長オドアケルにより西ローマの帝位は廃止。
西ローマの行政機構は保たれたものの、六世紀頃にはかつて100万人を数えた帝都ローマの人口は3万人にまで減ってしまいました。
ビザンツ帝国
コンスタンティノープルを首都とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、かつてのローマ帝国の倍以上、千年以上も存続しました。
六世紀のユニティアス帝は、一時ゲルマン民族を征服したり、西ローマ帝国領域を回復したりと権威を高めましたが、六世紀中頃に猛威をふるったペストにより皇帝も命を落とすこととなりました。
ペストで人口の約半分が死亡してしまいます。
六世紀末から七世紀にかけてビザンツ帝国はササン朝との激しい戦いを繰り返し、この状況を利用したイスラーム勢力の伸張によりビザンツ帝国は徐々に圧迫されていくこととなります。
終わりに
いかがでしたでしょうか。
栄華を誇った海洋帝国ローマも衰退し、最終的には東地中海における商業を基盤とするギリシャ的なビザンツ帝国が残りました。
この後、東地中海地域ではアラビア半島の遊牧民がイスラーム圏を形成しはじめます。
本日もご覧いただきありがとうございました。
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