現在の喜望峰
皆さんこんにちは。文月です。
本日も引き続き「世界全史」について見ていきたいと思います。
この一連のエントリーは、私の読書備忘録を兼ねています。
一つ前のエントリーはこちらです。
本日は第6章「世界史の舞台を大きく拡張した大航海時代」から、大航海時代の始まりとポルトガルの覇権についてみていきます。
目次
大航海時代
15世紀、ヨーロッパは世界の海にへ進出して、世界史は世界規模で接続されるようになります。
大航海時代は、ルネサンスにおけるユーラシア西側海岸海域からスタートして、大西洋開発が中心となります。(下記エントリー参考)
大航海時代以降、大西洋から南北アメリカ、アフリカ大陸が世界史に組み込まれるようになりました。
大航海時代は新大陸への移住、征服、プランテーション経営、奴隷貿易などの経済活動がネットワークでつながり、資本主義経済へと発展していくことになります。
ポルトガルが大航海時代を主導
ポルトガルはイベリア半島の西側に位置する小国で、当時は100万人程度しかいませんでした。
レコンキスタでアフリカ北西部のモロッコを獲得しようとしましたがあえなく失敗、大陸からではなくやむなく大西洋側からアフリカにアプローチするようになります。
ポルトガルのアフリカ西岸探検を組織したのがポルトガル国王の三男であるエンリケ航海王子でした。
エンリケは、羅針盤を活用してアフリカ西岸の探検を進めていきます。
エンリケは生涯独身を貫き、その死までに赤道付近のギニア湾まで進出しました。
エンリケの死後、ポルトガルはフェルナン・ゴメスを後継者としてアフリカ西岸探検を命じます。
喜望峰の発見
バルトロメウ・ディアスがアフリカ南部で暴風雨にあってしまいます。
この影響でたまたまアフリカ最南端にたどり着き、目安となる「喜望峰(当初は嵐の岬)」を発見します。
喜望峰の発見により、ポルトガルはアフリカ西岸開発からアジア航路開発に切り替えます。大西洋・インド洋が繋がり、アジアと直接貿易のメドがついたためです。
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団が喜望峰を回ってインドからコショウを持ち帰ります。
これによってインドとの直接航路が拓かれるとともに、コショウがポルトガルに富をもたらしました。
1509年、ポルトガルはインド北方のカンベイ湾入り口近くでエジプトのマムルーク朝の艦隊と戦い、これに大打撃を与えてインド洋の覇権を確立します。
その後ポルトガルはインド西岸の港ゴアを征服し、そこを拠点としてマラッカ海峡のマラッカ王国、モルッカ諸島、東アジアへ進出していきます。
マカオへの進出
マラッカ征服後、ポルトガルは明の密貿易商と組んで東アジアの密貿易に参加して東アジア海域へ進出します。
ポルトガルは港の地方官を買収してマカオに居留地を設定すると、マカオを東アジア貿易の中心地として活動していくことに。
当時の日本は世界有数の銀産出国であり、ポルトガルは明で購入した生糸、絹、錦糸を売って、大量の銀を手に入れました。
終わりに
いかがでしたでしょうか。
ポルトガルは喜望峰を発見して大西洋と東アジアをつなぐとともに、自身は密貿易により巨額の富を得ました。
日本は銀によってポルトガルやオランダとの関係が深まりました。
日本の近代は後の幕末も含めて海の世界に牽引されていたのです。