皆さんこんにちは。文月です。
本日も引き続き「世界全史」について見ていきたいと思います。
この一連のエントリーは、私の読書備忘録を兼ねています。
一つ前のエントリーはこちら。
本日は第8章「イギリスがリードした「ヨーロッパの世紀」」から、オスマン・トルコをはじめとしたユーラシア帝国の解体についてみていきます。
目次
オスマン・トルコの弱体化
19世紀一時はヨーロッパを脅かしたオスマン・トルコは、西欧列強の介入によりギリシャやスラブ系国家が独立し、帝国は不安定化していました。
オスマン・トルコのスルタンは脱イスラム、西欧化改革を行いましたが、保守的なイスラム勢力の反対にあい成果は上がらず、内部対立が強まります。
1908年には、立憲大切を求める「青年トルコ」がクーデターにより政権を奪取、ロシア支配下の中央アジアのトルコ人と組んで「トルコ帝国」を樹立する「パン・トルコ主義」が台頭します。
トルコは第一次世界大戦でドイツと組んでロシアと戦いますが敗北。
オスマン帝国は解体されてアラブ地域は英仏の支配下となります。
オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 /中央公論新社/小笠原弘幸 |
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ムガル帝国からインド帝国へ
イギリスは東インド会社が先頭にたって、「セポイ」というインド傭兵を使い、分裂するムガル帝国をさらに弱体化させ、インド支配の体制を構築していきました。
19世紀中頃、東インド会社は植民地支配拡大のため、アフガニスタンやビルマに進出しようとセポイをそれぞれの地域に派遣します。
しかし、宗教的に「不浄の地」である外国に行かされるセポイにとって、イギリスに対する不満が溜まっていくことに。
その他の宗教的問題も重なるものの、東インド会社は無視、ついには「セポイの反乱」というインド独立運動に発展します。
セポイは一時デリーに政権を樹立しますが、東インド会社により鎮圧されます。
セポイの反落をきっかけに、イギリスは東インド会社を解散して、インドを「インド帝国」として直接植民地として支配する事になりました。
インドとイギリス /岩波書店/吉岡昭彦 |
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植民地化される清
産業革命以後、喫茶の習慣が民衆にまで広まり、多くの紅茶が必要になっていたイギリスは、紅茶代金を支払うための大量の銀の調達に悩み、インドのベンガル地方で栽培させた麻薬「アヘン」を清に密輸出することで、貿易の均衡を保とうとしました。
清ではアヘン中毒者が200万人以上も発生し、銀が大量に国外へ流出。
このため清の農民の生活は破綻していきます。
清はどうにかアヘンの蔓延を防ごうと、強硬派を全権大使に任命して、イギリス商館を軍をもって包囲してアヘンを没収、これを処分しました。
イギリス、インド、中国の三角貿易の一角が崩れることを恐れたイギリスは清に対し「アヘン戦争」を仕掛けます。
イギリスとの戦線拡大を恐れた清は「南京条約」により戦争を終結、清はイギリスに対して戦争費用や処分したアヘンの代金の賠償、アヘン取引合法化、香港の割譲などを認めさせられます。
アヘン戦争の結果、清の農民の生活はさらに苦しくなり、農民反乱軍である「太平天国」が挙兵します。
しかし、太平天国の出現を利権拡大の好機とみたイギリスは、フランスとともに「アロー戦争」を起こし、清に対し天津などの港の開港、外国公使の北京駐在などを認めさせます。
さらに、アロー戦争の終結を仲介したロシアも、その代償として清に北満州などを割譲させます。
こうして、清は西欧列強に分割され、中華帝国から国民国家へと移行させられていきます。
実録アヘン戦争 /中央公論新社/陳舜臣 |
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終わりに
いかがでしたでしょうか。
産業革命による技術革新や圧倒的な軍事力を背景に、西欧列強はユーラシアの伝統的な帝国を解体に追い込んでいきます。
まさに19世紀は「ヨーロッパの世紀」だったのです。
本日もご覧いただきありがとうございました。
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